【ヒト・シゴト・ライフスタイル】どんな道を選んでも失敗はない‐DNDi日本代表 平林史子さん

2016年7月1日 (金)

薬学生新聞


DNDi日本代表 平林史子さん

DNDi日本代表 平林史子さん

 DNDi(顧みられない熱帯病のための新薬開発イニシアチブ)というスイスの非営利団体をご存じだろうか。日本では聞き慣れない眠り病、リーシュマニア症、シャーガス病などの顧みられない熱帯病の新薬開発を目指すグローバルな組織で、途上国に薬を必要とする患者が多く存在するものの、新薬が開発されないこれら疾患の開発障壁を取り除き、確実に薬を患者の手元に届けるために活動している。その日本代表を務めるのが平林史子さん。国境なき医師団(MSF)に日本人スタッフの薬剤師第1号として参加し、エイズ薬などの医薬品アクセスを促す必須医薬品キャンペーンに従事。当時、薬剤師の派遣が珍しかったウガンダでのエイズプロジェクトにも加わり、海外でのフィールド活動も経験してきた。そんな世界の国際保健分野で活躍する薬剤師の先駆者とも言える平林さん。「仕事ばかりしてきたかもしれない」と笑うが、「どの道を選んでも失敗という選択はない。どんな選択をしようと、それがベスト」と薬学生にエールを送る。さあ、失敗を恐れず世界に飛び出そう!

ギャラリーの張り紙が転機に

 平林さんは、1982年に星薬科大学を卒業後、国内製薬企業とフランスの製薬企業に勤務し、研究開発企画、マーケティング業務に従事。堕胎ピルの日本市場導入に関わった後、夫の転勤に伴い、香港でスコットランド系投資信託会社に就職した。なぜ投資会社なのか?

 平林さんの答えは「自分が企業の大きな組織で何をやっているのか分からなかったのと、面白そうな仕事で違った世界を見たかったから」。当時、中国返還前の香港は政情が不安定だったが、アジアの成長センターとして投資信託のビジネスは大きく動いていた。そういうダイナミズムを感じたいと、新たな世界に飛び込んだ。

 1年後、再び夫の転勤でタイの首都バンコクへ。タイでは薬剤師免許が必要だった。バンコク市内のサミティベート病院で日本人患者の付き添いや手術の立ち会い、通訳対応を行ったり、エイズ患者の診療や支援にも関わりながら薬剤師免許の取得を目指したが、再び夫の転勤で帰国。広島に在住し、JICA(国際協力機構)で途上国から来日する研修員の通訳、国際医療ボランティア組織のAMDAでタイへの短期ボランティアなど、世界との関わりは持ち続けていた。薬局にも勤務したが、「タイから帰国して、医薬品や途上国支援という部分に何らかの形でも関わっていたかったんだと思う」

 転機が訪れたのは2000年。国際NGOの国境なき医師団(MSF)に参加した。そのきっかけは思わぬものだった。偶然、夫が銀座のギャラリーで開かれていたMSFの写真展を訪問したところ、会場の壁に「薬剤師募集」の張り紙があった。それを見て、関心があるかもしれないと募集要項をもらって自宅にファックスを送ってくれたという。ギャラリーの張り紙から平林さんの運命が変わったのである。

国際保健分野の最前線で活躍

 MSFでの役割は、医薬品アクセスを担当する「必須医薬品キャンペーン」のプロジェクト。ただ当時、医薬品アクセスといっても、日本で知っている人は皆無。「最初は理解できなくて、プロジェクトの活動も欧州が中心だった。日本で1人だけ医薬品アクセス問題の担当になって何をしていいか分からず、すぐに辞めようと思っていた」

 そんな中、MSFで働く3人の中心的な医師に出会った。1人がバンコクのスラムでエイズ患者の治療をしていた医師。「バンコクのエイズ患者は薬が手に入らないから使えない」と聞かされた。バンコクでエイズの乳児患者を支援するボランティアをしていた平林さんだが、まさか薬が使われていないとは知らなかった。「治療薬がない状態だと初めて気がついた。医薬品アクセスを何とかしなければいけないと分かった」

 もう1人が、現在のDNDi最高責任者のベルナール・ペクール医師。2000年に九州・沖縄サミットで来日した時、実際の医薬品アクセス問題がどういうことなのか教えてもらった。その後、年2回開かれる必須医薬品キャンペーンのグローバル会議がパリで開かれ、平林さんも参加した。ところが、「3日間の会議期間中、状況が分からず議論に全くついて行けなかった。もうダメだと思った」。また打ちのめされた。

 落ち込んでいたとき、偶然、MSFフランスの会長だったジャン・エルヴェ・ブラドル医師と面談予定になっていた。その場で、アフリカに蔓延している眠り病の研究開発がほとんど行われていないこと、医薬品アクセスがないことがどういうことなのか、熱い思いを聞いた。

 眠り病の治療薬は、古い薬で毒性が高く、耐性が強いものしかなかった。それでも研究開発が進まなければ、毒性が高くても古い薬を患者に使うしかない。だからこそ研究開発が必要だ――。ブラドル医師の言葉に、必要な医薬品の開発努力がされていて、医薬品が使われていると信じていた平林さんは衝撃を受けた。途上国では、目の前に医薬品があっても使われていない。研究開発も行われていない。そのことをMSFの3人の医師から気づかされた。医薬品アクセスに本気で取り組もうと決意した。

 その後、平林さんは必須医薬品キャンペーンに取り組みつつ、顧みられない熱帯病の研究開発にも関わった。しかし、当時の日本では関心は低く、できることは限られた。エイズ薬を開発している日本の製薬企業もなく、ほとんどは遠いアフリカの途上国の話に過ぎなかった。

 既に、顧みられない熱帯病のグローバルな研究開発ネットワークを構築しようとDNDiの設立準備が進められていた。平林さんは、旧ファルマシア日本法人の研究開発トップを務めたドイツ人医師、クリス・ブリュンガーさんと日本でもDNDiの活動が必要と考え、水面下で立ち上げを模索していた。

 そんなとき、ウガンダでのエイズ治療プロジェクトがスタートし、現地で薬剤師の募集があった。当時のMSFでは、薬剤師が現地の医療活動の一員としてフィールドに派遣されることは少なかった。「キャンペーンをやっていても、実際にアフリカのエイズ治療がどうなっているのか分からない。自分が現地入りして一緒に活動したいと思った」。そう思ったら行動に移すしかない。わずか3日で参加を決断し、2週間後にはウガンダに出発していた。実は、日本で一緒にDNDiの立ち上げを模索していたビュルンガーさんに相談もせず、飛び出してしまった平林さん。その後、ウガンダで7カ月にわたってフィールド活動を経験した。

09年、ケニアでの内臓リーシュマニア症臨床プロジェクトのモバイルチーム活動にて

09年、ケニアでの内臓リーシュマニア症臨床プロジェクトのモバイルチーム活動にて

 そして2004年、北里研究所や東京大学とのプロジェクトを支援するため、DNDiの活動を日本でスタートさせた。当時はオフィスもなく、ビュルンガーさんとの会議はもっぱら「スターバックス」が定番。そんな黎明期を経て、09年には、日本の製薬企業として初めてエーザイとシャーガス病の新薬開発で契約を結び、12年にはアステラス製薬と共同研究契約を結んだ。翌13年には、顧みられない熱帯病の新薬開発を支援する日本初の官民パートナーシップ「グローバルヘルス技術振興基金」(GHITファンド)が発足。いまでは、日本での顧みられない熱帯病への関心は高まりを見せ、かつてない追い風が吹いてきた。ここまで10年以上の月日を費やした。

 まだ国際保健分野で日本人の薬剤師が活動することが珍しかった当時。好奇心あふれる平林さんは、まさにフロントランナーとして、時代を切り開いてきた。薬学生には「昔に比べて進路の選択肢はたくさんあると思うが、どれを選択しても、どの道を選んでも失敗の道というものはないと思う」とエールを送る。

 そんな世界を相手に活動してきた平林さんのオフタイムは?

 「よく考えると、仕事ばっかりだったかもしれない。それじゃいけないですよね」と笑う。オフではまっているのが水泳。自宅近くのプールで泳ぐのがリラックスタイムになっている。近所の公園を散歩したり、温泉に行ったり、チェロも弾いたりする。「下手だけど、何でも新しいことをやってみたい」

 ずっと薬剤師として国際保健分野の最前線を走り続けてきた平林さんだが、「そろそろ引退して、のんびり乗馬でもやりたい」とらしくない言葉が……。ようやく日本でグローバルヘルスへの関心が高まってきたとはいえ、DNDiの活動も道半ば。引退するのは、まだまだ先になりそうだ。



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