明治薬科大学臨床薬剤学教授
加賀谷 肇
病院の薬剤師が病棟にいるということが当たり前の時代だが、実は、私が入職した1975年ごろは、薬剤師が調剤を主としていた時代、「医療薬学」といった言葉すらない時代でした。薬品管理の延長として薬品倉庫から病棟に飛び出し、先住民の医師、看護師らと対峙し、実際に患者さんとも接点を持ち、自らの居場所を求めました。
それらを通じて芽生えたばかりの“病棟業務”、その業務実態を元に、88年、入院患者の服薬管理と指導をする「調剤技術基本料」が初めて認められ、これが現在の病棟薬剤師の足掛かりになっています。
現在は多くの医師や看護師や薬剤師仲間と共に緩和医療をライフワークとしていますが、病院薬剤師業務の変遷は、薬剤師になってから40年たつ私自身の生き様とも重なります。病院からの初の薬剤師としてのアメリカ留学、
職場での様々な工夫・体験、人との出会いなどを交えつつ、今後の病院薬剤師業務や臨床教育の方向性など、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
今回は前段として、学生時代から入職に至るまでを述べます。
同じ白衣なら“医療現場”へ
私の父親は、当時の秋田鉱山専門学校出身で、家の中には鉄鉱石やいろいろなサンプル、原石などたくさんあり、地学をはじめとし広くサイエンスに興味を持っていました。その影響で私は後に、「白衣を着る仕事がしたい」と考えるようになり、「同じ白衣なら医療現場で貢献できる方がいいな」と思いました。漠として医歯薬系になりますが、当時の力量など考え薬学を目指し、71年に明治薬科大学に入学しました。
大学時代の卒業研究は、病理学教室を選びました。当時は、有機化学や合成、分析学など基礎系、あるいは実験系の研究室を選ぶのが一般的でしたが、「薬学はもう少し患者に貢献できるはずだ」と考えていました。
薬学の世界で医者が教えていること自体がそぐわないという見方もありましたが、私の目には基礎化学系ばかりの中で非常に新鮮に映りました。要するに臨床に関わりたいという気持ちの表れだったと思います。
“臨床”が新鮮だった時代
卒論テーマは「甲状腺機能亢進症」でした。結果的には、入職し内科系の病棟を担当した時、カルテや実際の臨床の場で患者に接する中で、病態生理、病気に親しみを持てたわけですが、薬剤師にとっても、病気のこと、病態や生理は大事だなと改めて思いました。
時代背景的には、私が卒業したその前の年、つまり74年が「第一次オイルショック」の年で日本経済は混乱。今のよう売り手市場ではなく、新卒者にとって狭き門ではありました。特に、薬学部卒の男子の主な就職先が製薬メーカー(プロパー、今はMR)だったため、厳しかったのを覚えています。
そうなると公務員が有利ではないかという思いもあり、4年生の時に2週間の実務実習(=病院実習)の実習先として国立東京第二病院(現・東京医療センター)を選びました。当時の実習はいわば学生が自主的に行う形で、大学の正式な授業(単位)ではありませんでしたが、学生にとってリクルート活動の一環であったともいえます。
その実習の中で、私より2、3歳年上だろうという若い薬剤師が医師と打ち合せをしながら、多様な院内特殊製剤を調製し、保存剤や添加剤などについて薬剤師がイニシアティブを握っている現状を目の当たりにし、技能を発揮できる「病院薬剤師」になろうと決めました。
そして偶然にも、75年に北里大学病院に入職が決まりました。戦後初めて設置された医学部の併設施設として71年に開設され、「新しい医療を築き上げていこう!!」というムードが漂っていたのを強く覚えています。また、いろいろな意味で医療現場の垣根が低かったのが特徴でした。そのことが、後の病院薬剤師としての私の人生に、少し影響したかもしれません。
次回は、「新人病院薬剤師の企み~『倉庫番』が病棟進出を狙う」です。