ベンチャー企業を立ち上げ、医療のDX(デジタルトランスフォーメーション)化に取り組んでいる薬剤師がいる。ネクイノの代表取締役を務める石井健一さんだ。月経痛改善などに役立つピルを処方するオンライン診療プラットフォーム「スマルナ」を構築し、スマートフォンアプリでサービスを提供している。薬剤の完成度が高く、一定のニーズもある一方で、社会に浸透していないピル。供給と需要のギャップをテクノロジーで解決できると考えて事業を開始した。石井さんは「新しい医療の形を提案したい」と意気込みを語る。
スマルナはピルを処方するオンライン診療プラットフォーム。ユーザーはスマートフォンアプリを通じて自由診療下で医師の診察を受け、ピルを処方してもらう。自宅や職場で郵送されたピルを受け取る。
例えば、低用量ピル12カ月分の処方の場合、12シート分の料金2万8560円と診察代1500円を初回に支払う。月あたりに換算した金額は2380円ほど。利用期間に応じて、1カ月ごと、3カ月ごとに購入するプランも選べる。相談までは無料。
月経困難症や子宮内膜症を治療するために保険適用を受けてピルを利用する場合の自己負担額と比べても概ね同程度の価格で済む。避妊目的でピルを利用する場合はもともと保険適用外であることからユーザーに不都合は少ないようだ。性や体の悩みを薬剤師や助産師などに聞いてもらえる機能も利用できる。アプリの累計ダウンロード数は80万件以上。10~30代女性を中心に利用が広がっているようだ。
ピルは排卵や生理に関わる女性ホルモンを配合した経口剤。普及率はフランスやドイツなどで30%を超える一方、日本ではわずか3%ほどに留まる。ピル服用に対する抵抗感、産婦人科クリニックのキャパシティ不足、入手しづらさなど、さまざまな要因を理由に社会に普及していない。しかし、ピルは治療に対する薬剤の貢献度も治療の満足度も高い。ギャップをテクノロジーで解消できると考え、スマルナの事業構想を練り上げた。
最初の診察で最大1年分のピルを処方できるため、提携先の産婦人科医に大きな負担をかけずに済む。産婦人科医は分娩対応や手術など専門性の高い医療行為に力を注ぎやすくなる。医師数の少ない産婦人科の医療キャパシティは乏しく、仮にピルを利用したい人全員が診察に訪れると現場はパンクしてしまうという。
石井さんは「必要のある人は病院に行くべき。しかしオンラインの選択肢もある方が日本の医療全体にとってプラスだ。新しい医療の形を世の中に提案したい」と語る。
医療資源の配分に疑問抱く‐テクノロジーで解決目指す
事業の原型となるアイデアを考え始めたのは10年ほど前。帝京大学薬学部を卒業し、外資系製薬企業2社でMRとしてキャリアを計10年ほど積んだ頃だ。当時、臓器移植に用いる免疫抑制剤の販売に携わっていた石井さん。遠方から移植手術を受けに来た患者が、必ずしも高度な専門性を必要としない医療行為を受けるために回復後も担当医の診察を受けに遠くから通い続ける姿を見て疑問に感じた。
「高い専門性を持つ医師の時間が、別の医師でも対応できるケアのために使われていた」と振り返る。通常時には地元の医療機関で診察などを受けてもらい、緊急時や必要な時だけ担当医が介入すれば足りるケースもある。テクノロジーを活用した解決法を当時から医師と議論していた。
11年に関西学院大学大学院に進学。社会人として働きながら、医師の業務配分の適正化、患者自身の行動変容を医療課題に設定して研究論文を書き上げ、経営学修士号(MBA)を取得した。
課題解決に向け、大学院を卒業した13年に製薬企業を退職して最初の会社を設立。医療機関のマーケティングやデジタル投資を支援した。手応えもあったが「支援先の医療機関の課題を解決できても、世の中全体の課題を全く解決できなかった。拡張性がなかった」という。
転機が訪れたのは15年8月。遠隔診療の規制を緩和する厚生労働省の事務連絡を見てひらめいた。
「1人でカバーできる医療機関は限られている。しかし遠隔診療を活用して課題解決の取り組みを指数関数的に広げられるかもしれない」
翌日には同じ薬剤師で友人の渡部弘一さんに連絡。医薬品卸の勤務経験を持つ渡部さんの知見も事業構想に採り入れ、16年に共同で前身のネクストイノベーションを立ち上げた。
最初に始めたのは、薄毛やEDの治療薬を自由診療で処方するオンラインサービス。当初からピルを視野に入れていたが、購入者の女性の気持ちを理解できず、マーケティングに苦しむと予想。まずは自分たちと同じ性別の男性向けにサービスを提供し、ビジネスモデル自体の実証に専念しようと考えた。ユーザーからの評価、事業継続性などを確認し、設立から2年後の18年に本命のピル市場に打って出た。
ピルの国内市場は医薬品ベースで約370億円規模。石井さんらが参入した時には200億円ほどだったが、月経痛に対する理解の広がりなどを受けてここ数年でほぼ2倍の市場規模に成長した。
このうちネクイノは物量ベースで4~5%のトップシェアを握っているという。70~80軒の医療機関と提携する集合体であるため、数値の面では単独の医療機関を圧倒している。
設立当初、オンライン診療の事業に理解を得ることに苦労したが、21年には資金調達額も累計35億円を超えた。従業員も100人を超え拡大を続けている。
“予防に報酬”仕組み作りたい
ただ、石井さんは「薬を売りたいわけじゃない。目的は医療課題の解決だ」と強調する。
次の課題は予防医療。公的保険制度の枠組みには健康を維持し続けた人に対するインセンティブはなく、予防の意識を持ちにくい。しかし、女性特有の疾患には早期発見や早期介入で予防できる病気が少なくない。「病気にならないためのアクションにインセンティブを提供する仕組みを今後10年でつくりたい」と語る。
健康に関する情報を一元管理するパーソナルヘルスレコード(PHR)の仕組みを活用。オンライン診療のデータやライフログを収集、分析して、疾患のリスク要因となる行動を特定し、その行動を回避した人に何らかの報酬を与えるという構想だ。
今後5年ほどをかけてデータ利活用の基盤をつくる計画。基盤構築に向けてNTTコミュニケーションズなどとも提携した。生命保険会社などと協力して新しい保険商品の開発などにつなげる。保険会社にとっても病気になる人を減らすことで保険金や給付金の支払いを減らせるメリットがある。
こうした医療DXの足掛かりとなるのがスマルナだ。「医療DXを進めるうえでも、まずは世の中に何かを提案しなければならない。その最初がピル処方のオンライン診療サービスだった」と説明する。スマルナユーザーのニーズに応えるサービス開発も続けるが、あくまで医療DXを最終目標としている。
会社のミッションに掲げたのは「世界中の医療空間と体験を再定義する」。発展が見込まれる人工知能やバーチャル技術などを駆使して、医療者と患者の双方に負担の少ないオンライン診療のあり方を提示し続ける考えだ。
「バイタルデータをリアルタイムに測定できないなどオンライン診療ではできないこともまだある。テクノロジーを活用した課題解決を今後も進めたい」と語る。