武田薬品医薬研究本部化学研究所長
内川 治氏に聞く
新薬が生み出される確率は、3万個の化合物からわずか1個にすぎないとも言われる。自然な眠りをもたらす世界初の睡眠薬「ロゼレム」(一般名:ラメルテオン)を生み出した武田薬品医薬研究本部化学研究所長の内川治氏は、創薬に不可欠な公式とは、「ロジック(論理)×パッション(情熱)=レゾナンス(共感)」と言い切る。創薬への情熱を武器に、「歯車は必ず合うもの。合わない歯車は、自ら合わせるべき」という姿勢で日夜努力し続け、ついにほんのわずかな可能性を掴んだ。内川氏にロゼレムの開発秘話を聞いた。
退社覚悟の入社後10年
大学の理学部で有機合成化学を専攻していたので、幅広い職業の選択肢がありました。当時の山口勝教授から「君は武田薬品を受けなさい」とのひと言で、製薬会社である武田薬品の採用面接を受け、たまたま運良く入社を許可されました。
配属されたのは、大阪都心に位置する十三(じゅうそう)にある化学研究所でした。当時の化学研究所といえば、全国から選りすぐりの優秀な学生が創薬研究者(薬のデザイナー)を志して集まってくる憧れの研究所で、新規化合物を月に8つもデザインして合成する連中がズラリと揃っていました。ひと月実働わずか20日で、世界にない化合物を自らデザインし、合成法を考えて、8化合物を創り出す。合成実験を経験した人であれば、これがどれだけ大変なことかがお分かりになるでしょう。入社後、私は周囲の研究者との能力差をひしひしと感じ、毎日胃が痛くなるほどのプレッシャーやストレスで苦しみもがきました。
「人生はまだまだ長い、これから何十年もここで頑張るのは到底自信がない」と思って、入社直後に、ある決断をしました。それは、「今後10年間で臨床試験に進むような候補化合物を見つけ出すことができなければ、武田薬品を辞めよう」というものでした。このことは誰にも告げませんでした。「期間を明確に区切れば、その期間だけならば必死に頑張れる。人生はたった一度っきりなのだから、10年間はたとえ血を吐こうが、身体が壊れようが、渾身の力を振り絞って創薬に挑戦してみよう」との覚悟でした。
仮に月に8つ、年に約100個の新規化合物を生み出せたとしても、3万個に1個の割合で新薬が生まれるとしたら、自力で新薬を手にするためには3万個÷100個/年=300年!!もの年月を必要とする計算になります。一体誰がチャレンジするというのでしょう?今にして思えば、私が立てた10年という期限は、無謀としか言いようのないものでした。
様々な疾患領域でいくつもの研究テーマを担当しましたが、物事はうまく運びません。「研究所を去らねばならないかもしれない」という焦りを徐々に感じ始めた頃、それは入社して約8年が経ったある日のことでした。「睡眠薬の研究を行いなさい」との指示が私に告げられました。
私は絶句しました。なぜなら、既存の睡眠薬は極めて強力であり、それらと異なる睡眠薬を創り出すのは不可能だと考えられていたからです。帰途、電車の中で、年長の研究者がこう私に告げました。「睡眠薬をテーマにする?君の研究者人生は終わりだね」と。
現在もそうですが、1990年代の睡眠薬といえば、「眠りたいときに眠れる」ベンゾジアゼピン系薬剤が主流でした。しかしながら当時イギリスのBBC放送が、「The Halcion Nightmare(ハルシオンの悪夢)」というドキュメンタリー番組を製作、放映して従来の睡眠薬の問題点を指摘し、世界中の人々に大きな衝撃を与えました。
そのような背景のもと、従来の睡眠薬とは異なる新たな睡眠薬創製プロジェクトが研究所内でスタートしたのです。心の中で決めた私の研究者在席期限は残りわずか2年。もう後がない、本当に最後の研究テーマだと腹を括って着手しました。
「始発に乗り昼食なし」の毎日‐世界初の睡眠薬開発に賭ける
睡眠薬で強制的に眠らせる睡眠が、果たして本来の癒しの睡眠をもたらしているのだろうか?私たちは、“自然睡眠”をキーワードに、安全性が高く、身体に優しい睡眠薬の開発にチャレンジしました。
そこで着目したのが、脳の松果体で分泌され、自然睡眠をもたらし、体内リズムを司るホルモン「メラトニン」でした。メラトニンは夜間に常に脳の松果体から補充されているからこそ、その役割を果たすことができます。一方、仮にメラトニンを就寝前に経口服用したならば、すぐに壊れてしまうメラトニンでは睡眠持続効果が見込めないばかりか、経口服用時の安全性にも私たちは疑問を持ちました。そこでメラトニンに代わって、経口服用可能で、持続性のある薬剤を開発しようと計画しました。
ターゲットをメラトニンに絞り、探索合成を開始したケミストは、当時私1人でした。最大でも、上司(管理職)と私と同僚の計3人のケミストでこのテーマを推し進めました。ケミストを数十人抱えて絨毯爆撃(多くの化合物を徹底的に合成)しながらテーマを進めるのとは雲泥の差で、無謀としか言いようのない状況でした。それでも、新しいことに挑戦するワクワク感、どこにもない新薬創製の夢、苦しむ患者さんを救う笑顔をイメージしながら日夜精一杯努力しました。
毎朝午前4時半に起床し、阪急御影駅の4時53分の始発電車に飛び乗り、午前5時半には十三研究所へ。研究所の門がまだ開いていない時間帯ですから、インターホンで守衛さんにお願いして門を開けてもらい、昼食を食べる余裕もなく、実験室で候補化合物を見出すことに集中していました。その結果、ようやく神様が微笑んで下さり、自然睡眠をもたらし、記憶障害や運動障害を伴わない、世界初のメラトニン受容体作動薬ロゼレムを見つけ出すことができました。
うれしかった先輩の協力
ロゼレムを発見した喜びもつかの間、即刻毒性試験を行う必要がありました。見出した候補化合物が安全かどうかを試すために、大量スケールのサンプルを作って評価しなければなりません。一刻も早く新薬を届けるためには、私たちに残された時間はありませんでした。通常は原薬合成の専門チームにお願いして作ってもらうのですが、自分たちで100g以上のロゼレムをつくることを決意しました。
スケールアップに必要な圧力反応釜(オートクレーブ)が武田の徳山工場(当時の化成品研究所)にあることを確認し、そこに足を運んで試作を敢行することにしました。その時はまた、現場のケミストは私1人になっていました。さすがに、1人では無理だと判断されたのでしょう、当時の化学研究所長が、大量スケールの原薬合成の経験がある方をサポート役としてつけてくれました。私よりも10歳以上年上の方でした。
その方は年長者でしたし、これまで共に仕事をしてきた経緯もなかったので、最初はお互い戸惑っていました。でも10日経った頃でしょうか、「内川さん、あなたが毎日朝早く来て、昼食も食べずに一生懸命に取り組んでいることを僕は知った。一緒にやろう」と声をかけてくれたのです。本当に嬉しい言葉でした。
その後も紆余曲折がありましたが、ロゼレムは非臨床試験、臨床試験を乗り切り、05年に米国で、10年には国内で販売を開始しました。テーマに着手して11.5年で米国承認、その時点で気づいてみれば入社20年が経過していました。
努力は決して裏切らない‐アイデアに情熱を加えて
創薬とは、「ロジック(論理)×パッション(情熱)=レゾナンス(共感)」があって成り立つものだと思います。私たちは1人だけでは何もできません。アイデアだけでは形になりません。そこに情熱が加わって、そして共感を伴って多くの共同研究者が加わり、物事が大きく動き始めるのではないでしょうか。
私がいつも意識していることは、「努力は決して人を裏切らない」ということ。私は志望する公立高校に落ちて私立高校に入学したのですが、そのときの担任の先生が開口一番に私たちに告げられた「君たちは敗れたんだ。だから人一倍努力しろ」という言葉は今でも忘れることができません。私は自分が優秀だとは少しも思っていません。「努力をすることで、必ず夢が叶う」と信じて、これまで研究に真摯に取り組んできました。
個人の能力が発揮できる場所は、必ずあります。『これはやってはいけない』『あの人だからできたんだ』という言い訳ばかりを考えて、自分が行動しないことを肯定、納得するのではなく、どんどんチャレンジしてほしいと思います。必ずや、『チャレンジして良かった』と思える日がやって来るはずです。